金や銀といった金属を叩いて紙のように薄く伸ばし、寺院仏閣や仏壇・仏具、蒔絵細工や陶磁器などの美術工芸品の装飾に使われる箔。
実は、この「箔」の生産は、石川県の金沢市が全国シェア99%を占め、ほぼ独占状態です。
もともとは、全国的に行われていた箔の生産が廃れたためだそう。
全国で廃れたなら、いったいなぜ石川県にだけ残ったのでしょうか。
石川県の金沢箔とは
箔とは
箔とは、金属を薄く打ち伸ばしたものです。
金箔が真っ先にイメージされますが、金だけでなく、プラチナ、銀、銅、アルミ、あるいはこれらの合金を含む、あらゆる金属が箔になります。
金沢箔の場合、金箔は100%純粋な金ではなく、微量の銀と銅を加えた合金が使われます。
合金にすることで、箔を打ちやすくなるからです。
全国の生産量のうち金箔で98%以上が石川県の金沢市で占められ、上澄(箔の製作過程でできる中間製品)や洋箔(真鍮の合金を箔にしたもの)になるとシェア100%です。
箔の作り方
石川県金沢市では、金箔の場合で、1万分の1~3ミリ程度の厚さにまで広げます。
だいたい10円玉程度の分量の原料をたたみ2畳分ほどの大きさまで打ち伸ばします。
まず、原料を機械で100分の1mmまで押しのばします。
次に、箔づくり専用の紙に挟んで1000分の1mmまで打ちのばします。この段階を「上澄(うわずみ)」と言います。
上澄の段階でも製品になりますが、ここからさらに10000分の1㎜まで打ち伸ばすと「金箔」になります。
なぜ石川県の金沢産が独占しているのか
一つの理由は、降雨や降雪が多く、適度な湿気を持つ石川県の気候が箔づくりにあっていると言われます。
もう一つは、箔は貨幣の材料にもなる貴金属を材料に使うことから、江戸時代、幕府によって統制され、限られた地域でしか生産が許されませんでした。
結果的に、石川県以外の産地では生産が途絶えてしまったため、ほとんど唯一の産地として金沢市が残ったのです。
箔打ちは、金属を叩いて伸ばすだけでの単純な作業のように見えて、極薄の状態まで均質に伸ばすのは極めて複雑な工程と高い技術が求められます。
たとえば、箔を機械で叩くときの緩衝材に使う箔打紙は、ただの紙ではありません。
粘土を混ぜた和紙を、灰汁、柿渋、卵を混ぜた溶液に1ケ月漬け込むという、非常に手間のかかる工程でできあがります。
こうした技術は、いったん継承が途絶えると、おいそれと復活できるものではなく、現在でも石川県以外の有力産地が育たたないというわけです。
石川県の金沢箔の歴史
金沢箔の起こり
石川県の金沢箔の起源について、はっきりしたことはわかっていません。
ただ、文禄2年(1593年)に、加賀藩藩主で前田利家が、朝鮮役の際、出兵からわざわざ国元へ金箔・銀箔の製造を命じる書簡を出しています。
このため、1593年の利家の命から、箔製造が始まったとする考え方もあります。
しかし、箔打ちはベースとなる技術が必要なことから、それ以前から、箔の製造そのものは行われていたとする説もあります。
幕府による統制
加賀藩は、漆器や和服など、箔を原料として使うことの多い美術工芸品を生産しており、藩の政策によって箔づくりが奨励されていました。
ところが、元禄9年(1696年)、江戸幕府は、江戸・京都以外での箔の製造を禁止にしてしまいます。
貨幣の材料にもなる金銀など貴金属を統制するためだったと言われています。
これにより、京都箔、江戸箔以外の生産地は壊滅。
加賀藩でも一時的に箔の製造が途絶えたと考えられています。
密かに復活する箔打ち
文化5(1808)年、金沢城の二の丸が焼失してしまい、これを再建するため、多量の金箔が必要になりました。
加賀藩では幕府に願いでて、京都より箔打ち職人を招き、藩内で一時的に箔づくりを行う許可を得ます。
京都の職人が行う箔づくりの様子を間近で見た金沢の人たちの中には、箔づくりに興味を持つ人が少なからず現れます。
なにせ、金沢では、箔をよく使います。
このときは、江戸や京都から仕入れるしかありませんでしたが、自分たちで作れればよい商売になるのは間違いありません。
京都からきた職人の作業を見よう見まねするだけではあきたらず、自ら京都に赴き、箔職人のもとで修行し、本格的な技術を習得する者もあらわれます。
こうして、加賀でこっそりと箔打ちが再開しました。
藩の庇護で命脈を保つ
加賀藩と同じく、こっそり箔打ちを続けていた例があったのでしょう。
幕府は文政年間に数度の箔打ち禁止令を繰り返し発令します。
それでも、加賀で復活した箔打ち職人たちは命脈を保ちました。
その背景には、加賀藩の庇護がありました。
藩としても箔を自前で生産したい。
かといって大っぴらにやると幕府のお咎めをうけるので、藩の細工所でひそかに生産を続け、技術が途絶えるのを防いだのです。
粘り強い公認運動が実を結ぶ
加賀藩の庇護のもと、何とか箔打ち生産の命脈は保ったものの、大っぴらに販売できなければ商売は広がりません。
藩と職人たちによる公認運動が粘り強く続けられ、この結果、弘化2(1845)年、江戸から仕入れた箔を再販売することが認められました。
再販売が認められただけで箔の生産が許可されたわけではありません。
それでも、加賀の職人たちは、江戸から仕入れた箔の打直しという名目で、半ば大っぴらに箔打ちできるようになりました。
とはいえ、実態がばれればまた禁止されてしまうかもしれません。
引き続き公認運動は続けられ、ついに、元治元(1864)年、藩の御用箔に限るという条件つきながら、金沢での箔生産が正式に許可されたのです。
江戸箔、京都箔の衰退で金沢箔が急浮上
江戸、京都に続く、第三の箔産地となった金沢では、急速に箔産業が発展。
明治維新によって幕府の統制がなくなり、箔生産が解禁になっても、3地域以外では箔の技術が完全に途絶えてしまっていますので、追随する勢力がない状態です。
やがて、幕府の庇護を失った江戸や京都の箔業界が衰退すると、金沢箔の立場が逆転したのです。
第一次世界大戦を契機に世界的な産地に
大正時代になり、すでに国内でほぼ唯一の金箔産地になっていた石川県金沢市に、さらに飛躍のチャンスが訪れます。
世界的な金箔の供給源であったドイツが、第1次世界大戦によって生産をストップしてしまい、金沢への需要が急増。金沢箔は一気に世界的なブランドになりました。
急増した需要に対応するため、自動箔打ち機が発明され、生産量も飛躍的に拡大。
石川県金沢市の金箔産業は急速な発展を遂げ、現在に至るというわけです。
参考:
石川県中小企業団体中央会
金沢市キッズページ
「伝統工芸青山スクエア」伝統的工芸品産業振興協会
金沢伝統工芸ネット
石川新情報書府
金沢市立安江金箔工芸館
金沢箔技術振興研究所
金沢箔の商標登録情報
登録日 | 平成18年(2006)6月30日 |
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出願日 | 平成17年(2005)12月27日 |
先願権発生日 | 平成17年(2005)12月27日 |
存続期間満了日 | 平成38年(2026)6月30日 |
商標 | 金沢箔∞石川県箔商工業協同組合 |
称呼 | カナザワハク,イシカワケンハクショーコーギョーキョードークミアイ,ハクショーコーギョーキョードークミアイ,イシカワケンハクショーコーギョー |
権利者 | 石川県箔商工業協同組合 |
区分数 | 1 |
第14分類 | 金又は金合金のはく・粉及び展伸材,銀又は銀合金のはく・粉及び展伸材,白金又は白金合金のはく・粉及び展伸材【類似群コード】06A02 |
登録日 | 平成19年(2007)2月9日 |
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出願日 | 平成18年(2006)4月3日 |
先願権発生日 | 平成18年(2006)4月3日 |
存続期間満了日 | 平成39年(2027)2月9日 |
商標 | 金沢箔 |
称呼 | カナザワハク |
権利者 | 石川県箔商工業協同組合 |
区分数 | 2 |
第6分類 | 石川県金沢市産の銅又は銅合金のはく,石川県金沢市産のアルミニウム又はアルミニウム合金のはく【類似群コード】06A02 |
第14分類 | 石川県金沢市産の金又は金合金のはく,石川県金沢市産の銀又は銀合金のはく【類似群コード】06A02 |