“灘の生一本”といえば、灘で作られた交じりけのない日本酒のことを指し、愛飲家の間で最高の酒として賞賛されるものです。
日本中に知られる地域ブランドであり、近年では外国人のファンも多く、日本酒を求めて灘に訪れる観光客も少なくありません。
なぜ灘の酒は、世界中から人気を集めるお酒となったのでしょうか。
兵庫県の灘の酒とは
灘の酒の特徴は、もろみ日数と麹にあります。
もろみ日数とは、仕込みを終えてから酒を絞り出すまでの期間を指しますが、灘の酒は比較的短い期間でこの工程を行います。
もろみ日数が長いとまろやかな味になり、短いととがった味になるとされます。
また、灘の酒の麹は若い掛麹を使用しており、強めに発酵させています。
こうした製造工程によって灘の酒の新酒は、「男酒」とも呼ばれる、荒々しい舌触りの辛口の新酒が出来上がるのです。
ところが、夏を過ぎることになると、一転して、熟成されたまろやかな味に変わります。
秋になって酒の質が上がることを「秋晴れ」「秋上がり」といいます。
新酒のときの荒々しい味と、秋になって円熟の味に仕上がる、2つの顔を持つ酒こそ、灘の酒の大きな特徴です。
もう一つ、重要な要素が原料となる水と米です。
灘の酒は「宮水」を使用しています。宮水は江戸時代末期に発見された名水中の名水で、リン、カリウム、カルシウムなどのミネラルを豊富に含んでいます。
軟水が多い日本では珍しい硬水でもあります。
さらに、宮水は、酒造りであまり好ましくない鉄分をほとんど含んでいません。鉄分が多いと、できる酒の色が濃くなり、風味を損ないます。
したがって、鉄分を含まない宮水を使った灘の酒は透明感があり、特有の芳醇な風味を持っているわけです。
米についても、灘では、もっとも日本酒に適しているとされる好適米、「山田錦」を生みだした地でもあります。
名水どころは米どころでもあり、灘では昔から良質のコメが大量に生産できたわけですが、昭和の初めになって、兵庫県試験場が、酒のもとになるでんぷん質が多い半面、雑味のもとになるたんぱく質や脂質の少ない山田錦を人工交配により誕生させたことが、近年の灘の酒の発展を決定づけたものです。
兵庫県の灘の酒の歴史
灘の酒の歴史は非常に古く、正確にはいつごろ発祥したお酒なのか分かっていません。室町時代の記録には既に酒造りが始まっていたと記されています。
つまり灘の酒の発祥はそれ以前である可能性が非常に高いと言えるのです。
一般的には、1624年~43年ごろに西宮へ移り住んだ伊丹の「雑喉屋文右衛門」による酒造りが、灘の酒の起源とされています。
いずれにしても灘の酒はかなり古い時代から「西宮の旨酒」として知られていました。
灘の酒が知名度を飛躍的に向上させたのは、江戸時代の中期とされています。
灘は海に面しているため帆船による輸送に有利な地域でした。
船で江戸市中へ大量に酒を運びこむことができ、その名を広く知られるようになったのです。
兵庫県の灘の酒のブランディングについての考察
灘の酒がなぜこれほどのブランド力を持つようになったのでしょうか。
水と米に恵まれ、六甲山から吹き下ろされる寒風が、酒造りに適した低温・低湿状態を保つといった環境に恵まれたことがあるのは確かですが、さらに重要な要素として、灘五郷と呼ばれる酒造家集団の経営努力があります。
灘で酒造りが始まったとき、近接する伊丹や池田、西宮といった地域で酒造りが先行しており、灘は後塵を拝していました。
灘の酒造家たちは、となりの伊丹をベンチマークとして一致協力して品質の高い酒造りを研究したのです。
もともと、灘の酒造家たちは農家や問屋、商家の多角化によって興ったもので、当初は本業の片手間でしたが、酒造家の間で交流を図りつつ姻戚関係を結んでいったことで、いまでいうコングロマリットのような形で成長しました。
それぞれの酒造家は独立した経営体でありながら、チームとして団結し、他地域と競争する体制をとっており、こうした中から、名水「宮水」の発見、兵庫運河の建設など、酒造りに適した環境の整備を行ってきたものが、実を結んだものだったのです。
兵庫県の灘の酒の商標登録情報
登録日 | 平成19年(2007)3月9日 |
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出願日 | 平成18年(2006)5月8日 |
先願権発生日 | 平成18年(2006)5月8日 |
存続期間満了日 | 平成39年(2027)3月9日 |
商標 | 灘の酒 |
称呼 | ナダノサケ,ナダサケ |
権利者 | 灘五郷酒造組合 |
区分数 | 1 |
第33類 | 灘で生産された清酒 |