飛騨春慶(ひだしゅんけい)は、木目を生かした春慶塗りの手法を使ったタンス、盆、食器類などが生産されています。
平成19年(2007)3月9日、飛騨春慶連合協同組合(岐阜県高山市上一之町6番地)によって地域団体商標に登録されました。
日本三大春慶の一つに数えられる木工品であり、全国に分布する春慶塗りの発祥でもあります。
なぜ岐阜県で春慶塗りが発祥したのでしょうか。
岐阜県の飛騨春慶とは
岐阜県の飛騨春慶は、木目の持つ美しさを活かすため、透明な透漆(すきうるし)によって仕上げた艶のある表面と、板を立体的に成型する「曲げ」の技法に優れた木工品です。
木目を成型する木地師と、漆を塗る塗師の共同制作によって生産されます。
経年変化によって表面のツヤ、色調の深みが増すのも飛騨春慶の魅力の一つと言われます。
製品は、盆などの板物、菓子皿や食器などの曲物、小タンスなどの挽物の三種が主に生産されています。
岐阜県の飛騨春慶の歴史
江戸時代の初め、大工の棟梁だった高橋喜左衛門がサワラの木を打ち割ったところ、その美しい木目が目にとまりました。
何かに生かせないかと思案の末、木目がきれいに出るように、曲面を持ったハマグリ型の盆を制作しました。
出来がよかったため、完成した盆を時の高山城主金森可重に献上しました。
受け取った可重は木目の美しさを気に入り、御用塗師に銘じて木目を損なわない技法(現在の透き漆)を考案させました。
こうしてできたのが飛騨春慶です。
完成した盆の美しい色合いが、茶器の名品「飛春慶(ひしゅんけい)」に似ていることから、可重によって飛騨春慶と命名されたと伝えられています。
その後、金森家を通じて飛騨春慶の茶道具が将軍はじめ各地の大名への贈り物として使われたことで、全国に知られるようになりました。
現在全国に広まっている春慶塗りの木工品は、すべて飛騨春慶に倣ったものです。
当初、飛騨春慶は茶道具が中心でしたが、産業として発達するにつれて大衆向けの日用雑器が作れられるようになりました。
明治時代になると、世界の博覧会に積極的に出展され、海外にも飛騨春慶の存在が知れわたるようになり、現在にいたっています。
岐阜県の飛騨春慶のブランド力の考察
飛騨春慶の完成に欠かせなかったのは、高山城主金森可重の存在です。
喜左衛門が作った塗りのない木地だけの製品では、ここまでのブランドに育たなかったでしょう。
献上された盆を見て「漆を塗って完成する」と見抜き、木目の美しさを損なわない新たな漆塗りの製法の開発に携わりました。
この決断によって木工品の新境地を開く製品が完成したわけです。
このときの可重の立場は、現在でいうとファッションブランドなどを管理するブランドプロデューサーやブランドマネージャーに相当するでしょう。
ブランドを高めるためには、プロデューサーやマネージャーなど、製品の制作から販売まで全体をマネジメントする存在が極めて重要です。
一般的に、製品を製造する人たちは、物を作るのは得意でもマーケットが求めているデザインや品質や価格帯といった製品設計や販売戦略といったことは不得意で、ときに無頓着でさえあります。
好きに作らせると贅沢で品質は良いけれど、とても販売できないものができる可能性があります。
全体を俯瞰できる立場のプロデューサーやマネージャーといった人たちが職人をリードし、マーケットに求められる製品づくりをリードすることで、高品質でしかも市場に支持される商品ができあがるというわけです。
参考:
高山市役所
伝統工芸青山スクエア
岐阜県お土産マップ
飛騨春慶の商標登録情報
登録日 | 平成19年(2007)3月9日 |
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出願日 | 平成18年(2006)4月1日 |
先願権発生日 | 平成18年(2006)4月1日 |
存続期間満了日 | 平成29年(2017)3月9日 |
商標 | 飛騨春慶 |
称呼 | ヒダシュンケー |
権利者 | 飛▲騨▼春慶連合協同組合 |
区分数 | 2 |
第20類 | 飛騨で生産される春慶塗りの額縁,小たんす,収納用の箱 |
第21類 | 飛騨で生産される春慶塗りの食器類,盆,ぜん,はし,はし箱,花瓶,おしぼり受け |