福岡県を代表する地域ブランドである、博多織(はかたおり)。
福岡県の中心地、博多地域で育まれた伝統的な製法により、福岡県福岡市及びその周辺地域で生産された絹織物です。
日本三大織物の一つにも数えられます。
福岡県の博多織はどのように現在の地位を築いたのでしょうか。
福岡県の博多織とは
福岡県の博多織は、独特の美しい縞柄と、厚みのある生地を特徴とします。
また、とくに帯は締めやすくほどけにくい特徴があることから、重い刀を腰にさす武士の装束として重用されました。
福岡県の博多織にはいくつか種類がありますが、献上、平博多、間道、総浮け、捩り織、重ね織、絵緯博多の七品目を伝統の技法を継承した製品として位置付けています。
中でも、「献上」は博多織の元祖とされます。
献上は、仏具である独鈷(どっこ)と華皿(はなざら)をデザインした紋様を中心に、やはり仏教の世界観を反映した五行説を5色の縦縞模様で表現したものです。
従来は単に「独鈷」、「華皿」と呼ばれていましたが、江戸時代に幕府への献上品として採用されたことから、この名で呼ばれるようになりました。
福岡県の博多織の歴史
福岡県の博多織の歴史は鎌倉時代に遡ります。
東福寺開山や東大寺大勧進などとして活躍した名僧、聖一国師とともに宋へ渡った博多商人の満田弥三右衛門が技術を持ち帰ったことに始まります。
弥三右衛門はこのとき、織物だけではなく、焼き物や加工食品(うどんの元祖とされる)などの技術を持ち帰り、博多に広めた功績で知られますが、織物だけは家伝として子孫のみに継承しました。
その後、弥三右衛門の子孫が研究を重ね、250年たった江戸時代ごろ、現在の製法にたどり着き「覇家台織」(はかたおり)と命名されたのです。
前述のとおり、武士の装束として重用されるようになった博多織は江戸時代を通じて藩の保護下で発展。明治後半から昭和初期にかけていったん衰退しますが、戦後復興の波に乗って復活し、現在に至っています。
福岡県の博多織のブランド力の考察
福岡県の博多織は、厚みのある生地や独特の色彩を持つ縦縞などのすぐれた特徴を持っていることが多くの人に支持された要因ですが、その背景には聖一国師の存在があったと言われています。
そもそも、宋に弥三右衛門ら多数の商人を帯同させたのも聖一国師であり、日本に戻ったあとデザインに悩む弥三右衛門に独鈷(どっこ)と華皿(はなざら)を使った図案を提案したのも聖一国師であったと伝えられています。
この説はあくまで伝聞にすぎませんが、聖一国師という人の行なってきた数々の偉業を見れば、あながち伝説というわけでもなさそうです。
聖一国師は臨済宗の布教に尽力する半面で、国内の産業の高進にも大きな足跡を残した人として知られます。
弥三右衛門ら商人団を帯同した渡宋の際も、織物のほかに焼き物、そうめん、箔焼き、丸薬の5つの技法を持ち帰り、その普及を支援しました。
また晩年は、故郷の駿河で過ごしたとされますが、宋から持ち帰った茶の種を静岡に開いた医王山回春院の敷地で育て、そこから分枝された茶樹が静岡県一帯に広がり、現在の茶産業の礎となっていることでも知られます。
言ってみれば、聖一国師という人は、産業プロデュースの達人だったと言えるでしょう。
ブランディングを行う際に重要なのが、こうしたプロデューサーの存在です。
どのようなターゲットにどのようなテーマの商品を提案していくか、というブランドのコアを企画立案するのがプロデューサーの役割です。
ここがぶれてしまうと強いブランドに育ちません。
ブランドを生かすも殺すもプロデューサーの腕にかかっているというわけです。
参考:
博多織工業組合
伝統工芸青山スクエア
博多の魅力発信会議、博多まちづくり推進協議会
博多織の商標登録状況
登録日 | 平成19年(2007)3月9日 |
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出願日 | 平成18年(2006)7月10日 |
先願権発生日 | 平成18年(2006)7月10日 |
存続期間満了日 | 平成29年(2017)3月9日 |
商標 | 博多織 |
称呼 | ハカタオリ |
権利者 | 博多織工業組合 |
区分数 | 2 |
第24類 | 福岡県博多地域に由来する製法により福岡県福岡市・久留米市・甘木市・小郡市・筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・前原市・筑紫郡那珂川町・糟屋郡宇美町・糟屋郡志免町・糟屋郡須恵町・糟屋郡粕屋町・福津市・朝倉郡筑前町・糸島郡二丈町・佐賀県唐津市・佐賀郡川副町・佐賀郡久保田町・大分県豊後高田市・杵築市で生産された絹織物 |
第25類 | 同絹織物製の和服 |