鹿島建設は5大ゼネコンの一角を担う我が国を代表する総合建設業。
年間売上は1兆7000億円、従業員数は世界で15万人を超える巨大企業です。
その歴史は江戸時代に生きたたった一人の大工職人から始まったのです。
最初の屋号も鹿島ではありませんでした。
現在の商標に到達するまでの軌跡を鹿島建設の発展の歴史の中から見てみましょう。
江戸時代に大工店として創業
鹿島建設の始まりは、江戸時代までさかのぼります。
埼玉県狭山町で生まれ、四谷で大工修業をおさめた大工職人岩吉が棟梁株を入手して、江戸中橋正木町に構えた大工店がその始まりです。
歴史上名高い天保の改革が行われる1年前、1840年(天保11年)のことです。
このときの屋号は「大岩」と言いました。
創業者岩吉の名前をとり、大工の岩吉を縮めて大岩と称したと言われています。
ちなみに、正木町は現在の中央区京橋あたりです。
木造の家屋が密集していた江戸の街ではひとたび火災が起きると多くの建物が焼失します。
大工のニーズに事欠かず、江戸では多くの大工職人が働いていました。
大岩もそんな江戸住まいの大工の一人に過ぎなかったのです。
大岩の名が知られるようになるのは創業から20年後 の1860年(万延元年)のこと。
本格的な洋風建築である横浜の英一番館、亜一番館の建築を手掛けたことが飛躍のきっかけになりました。
この2年前、日本は日米修好通商条約を結び、外国に向かって開国。
政府は横浜を国際港にするため大規模な開発を行い、時ならぬ建設ラッシュに沸いていました。
大岩もこのとき、正木町の本拠を引き払って横浜に拠点を移します。
しかし、競争相手が多く思うように注文がとれません。
そんなとき、岩吉は他の大工が相手にしていなかった西洋人に目を付けたのです。
相手にしていなかったというよりできなかったのです。誰も洋館建設の経験などありませんから当然です。
大岩にしても経験がないのは同じでしたが、江戸を引き払って横浜まできたのに、このままでは引き下がれません。
一念発起して洋館建築の技術を確立すると、以後大岩は西洋館棟梁として名を上げるようになっていったのです。
そうして迎えた文明開化。
明治維新とともに西洋文明がどっと流れ込んでくると、西洋建築ブームが訪れました。
まさに好機到来です。
西洋館の技術を確立していた大岩が、この波によって急速に成長していったのは言うまでもありません。
大岩から鹿島方へ
明治時代以降、急速な西洋化が進む中で西洋館の建築技術をいち早く築いた大岩は、大きな成長を遂げます。
このころ、屋号が大岩から鹿島方に変わっています。
ここで初めて鹿島の名が登場します。
鹿島の呼称はどこから来たのでしょうか。
創業者、岩吉の姓です。
江戸時代、町人には姓がなかったというのは間違いです。
姓はあったのですが、名乗れなかっただけです。
明治になって姓を名乗ることが許されたことから鹿島の名を使い始めたのかもしれません。
鹿島方から鹿島組へ
明治になると岩吉の長男、岩蔵の代に移っていました。
西洋館建築の鹿島として知られるようになっていた鹿島方に二度目の転機が訪れます。
鉄道事業への進出です。
この際、組織も大きくなり業務も多様化してきたことで、より近代的な組織として生まれ変わるため、大工店の鹿島方を解散して鹿島組を創設して、初代組長に岩蔵が就任しました。
1872(明治5)年に新橋-横浜間に日本初の鉄道が開通すると、日本中で次々に鉄道建設が行われました。
当初から砂利などを納入する業務を請け負っていた大岩でしたが、1880(明治13)年、鉄道の父と言われた井上勝から直々に鉄道建設の請け負いを懇願されます。
日本ではまだ鉄道技術が確立しておらず、西洋頼みでした。
何とか日本独自の鉄道建設を推進したかった井上は、かねてから鹿島方の仕事ぶりに目を付けていたようです。
建設業から鉄道業への転身は非常に大きな冒険でしたが、2代目岩蔵は井上の意を受けて鉄道請負業に進出することにしたのです。
こうして、鉄道の鹿島としての歴史がスタートしました。
鹿島組から鹿島建設へ
洋館建設から鉄道業を中心とする土木業に転身してさらに成長した鹿島組でしたが、昭和になると再び建設業の比重を高めていきます。
四代目社長であり中興の祖と言われる鹿島守之助氏の方針が背景にあります。
古い大工職人の集団さながら、経営的な観点が育っていなかった組織に近代経営を持ち込み、詳細なマーケットリサーチから建設業の将来性を重視したということです。
実際その後、第二次大戦からの戦後復興の中で焼け野原になった東京を中心に建設業が大きく成長していくのです。
そうして、終戦の2年後、1947年に現在の社名である鹿島建設に改称し、現在にいたります。
鹿島建設としたのは、この時代進駐軍が各社に、名前でどういう企業かわかるようにという指示があったためだそうです。
かしまではなくかじま
鹿島の正式な商標は、「かじま」です。
かしまと間違っている人が多いのではないでしょうか。
Jリーグの競合鹿島アントラーズの本拠地として知られるようになった茨城県鹿島市とも無関係です。
商標は、これまで説明してきた通り、創業者一族である鹿島家から取ったものだったのです。
参考:
鹿島建設株式会社