七宝焼は、金属の素地に釉薬をかけて陶器のように焼き上げた器、食器、装飾品のことで、中でも尾張七宝(おわりしっぽう)は国産七宝の草分けとして知られています。
昔から愛知県の尾張地方では七宝づくりが盛んで、七宝町という町名ができるほどでした。
なぜ尾張地方ではそれだけ七宝づくりが盛んになったのでしょうか。
愛知県の尾張七宝とは
七宝焼に使われる素地は、銅や銀などの金属。
表面にガラス質の釉薬をかけ、焼き上げた上に、花、植物、動物、風景などの模様が鮮やかに描かれています。
特に、模様の輪郭を銀線で強調する「有線七宝」は、愛知県の尾張七宝ならではの技法です。
愛知県の尾張七宝は、七宝町七宝焼生産者協同組合(愛知県あま市七宝町遠島八幡島708)と、名古屋七宝協同組合(愛知県名古屋市中区栄三丁目 27番17号)の共同で地域団体商標に登録され、ブランド化が図られています。
愛知県の尾張七宝の歴史
七宝焼は、すでに紀元前から、メソポタミアやエジプトで原型が作られていたとされ、非常に長い歴史があります。
日本でも安土桃山時代ごろにはすでに生産されていたものの、一部の生産者が技術を独占していたため、生産数が限られていたうえ、釉薬に土を使った「泥七宝」と呼ばれるもので、表面がややくすんでいました。
これに対し、ガラス質の釉薬を使った外国製品は独特の光沢をもち、高価な輸入品として扱われていたのです。
そこに目を付けたのが、江戸初期のメッキ職人である梶常吉でした。
若干18歳の常吉は七宝の魅力に取りつかれ、自ら製作することを決意。
高価なオランダ製の七宝を何とか手に入れ、これを手本に独学で製法を研究し、14年かけて技術を完成させたと言われています。
常吉は製法を同業者にも公開したため、愛知県尾張地方で七宝製造が急速に発展していったのです。
明治時代になると、常吉が開発した技術をベースに、ドイツから輸入された技法によって改良を加え、外国製七宝に劣らない日本の七宝が誕生し、現在に至っています。
愛知県の尾張七宝のブランド力の考察
この連載で度々書いてきたように、最初にマーケットを開いた者が圧倒的有利な状況でブランド力を築くことができます。
常吉の功績は、外国製七宝に劣らない七宝を国内で生産し、しかも自ら開発した七宝焼の技術を公開したことです。
常吉が尾張七宝を確立するより前、少なくとも2世紀も前の安土桃山時代には、すでに国産七宝が誕生していました。
朝鮮などから技術を輸入し、京七宝や高槻七宝が生産されていたのです。
ただし、これらの生産地では製造法を自家だけの秘密にし製造を独占したため、技法が広がらず、家の途絶とともに製造もストップしてしまい、産業として発展することはありませんでした。
製造を独占することは、価格コントロールが可能になるなどのメリットもありますが、市場も大きくなりません。
これに対して、マーケットそのものを創造することにより、市場規模が拡大し、長い目でみるとより大きな収益を上げられるのです。
参考:
愛知県
伝統工芸青山スクエア
あいちの工芸品
あま市七宝焼アートヴィレッジ
尾張七宝の商標登録情報
登録日 | 平成21年(2009)11月13日 |
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出願日 | 平成20年(2008)9月11日 |
先願権発生日 | 平成20年(2008)9月11日 |
存続期間満了日 | 平成31年(2019)11月13日 |
商標 | 尾張七宝 |
称呼 | オワリシッポー |
権利者 | 七宝町七宝焼生産者協同組合, 名古屋七宝協同組合 |
区分数 | 7 |
第6類 | 尾張地方で生産された七宝焼の金属製のネームプレート及び標札,釘隠し,パネル及びタイル,ドアハンドル及びドアパネル |
第14類 | 同カフスボタン・ネクタイ止め・ネクタイピン・ペンダント・ループタイ・指輪・イヤリング・ネックレス,キーホルダー,記念たて,時計 |
第16類 | 同ボールペン・シャープペンシル・しおり・ペーパーナイフ・ペン皿・ペン立て・印章入れ・朱肉入れ・硯箱・書類箱・文鎮・文房具箱,写真立て |
第20類 | 同瓔珞,須弥壇用飾板 |
第21類 | 同皿・つぼ・椀・銘銘皿・茶托,飾り皿,花瓶,香炉 |
第26類 | 同衣服用き章・衣服用バッジ・衣服用ブローチ・帯留 |
第27類 | 同額・壁掛け |